我慢は美徳じゃなくて暴力

「我慢は美徳」というけれど、「我慢は美徳ではなく自分自身に対する嘘と暴力でしかない」。ヨーガには何者にも苦痛を与えないという『非暴力』、嘘をつかないという『正直』という教えがありますが

先週、死にかけて入院した夫がまさにそれで、仕事がストレスで何年も前から辞めたいと言っていたけれど、本人的には「まだやれる」とか、最後までやり通さないと…を繰り返し辞めずに続けていました

結果、体調を崩すことがしばしばあり、2年前も入院したし、毎日憂鬱そうで疲れが顔からにじみ出ていたり、すぐに不機嫌になって態度に出ては一緒にいて嫌だなと思ったり。私は命を削ってまで働くことないよ、そんなの嫌だし辞めてもいいよと言っていたけれど

心のどこかで本人が選んでいるしと強制的に止めることはしませんでした。これは掘り下げると、仕事を辞めてしまったら生活がガラッと変わるわけで、その変化への恐怖を回避したいと思う私のずるさ、弱さ、利己心、経済的・精神的などの依存でした

超、エゴ!ヨーガを長年続けても出てきます。でも、気づいてよかった

死にかけるという状況で強制的に神に肩を叩いてもらったわけで、私も目が覚めて夫に仕事を辞めるように本気で言って、今後の生活に対応できるように仕事の仕方を考えています

神としては夫は命をまだ持っていて良いそうですから、この程度で済んで良かったし、私の汚い部分が浮き彫りになり、こんな汚い部分を抱え込んで生きるのは嫌だと心底思いました

そもそも物事は常に変わるものだし、変化する時に失うものがあるのは、抵抗しようが不安に思おうが何十年生きててハッキリ分かっていることで

それに気づいたら、何を失うかよりも、これから来るものに目を向けるとワクワクというか希望が見えてくるし、すべては良くなるために起きているのだから、別に怖くないという信頼のが今は大きい\(^o^)/

世間的には仕事にストレスを感じるのって当たり前じゃん、多少体を壊しても我慢して働くのは当たり前じゃん、日本では我慢した先に何かある、仕事は長年続けるのが良いことみたいな観念がごく自然に刷り込まれているけど

先生にこの一件を話したら、例えば家族を養う、家庭を守るのが自分の義務でも、「体を壊してまで働くこと=義務を果たしている」ということにはならない。目的と手段がすり替わっている。幸せになるために生きているのだから、それは違うよねと教えてもらいました

世間の当たり前、「私(個人)」の中の正義や常識という価値観や観念が、実は自他を苦しめているエゴに過ぎないこと。気づかないけどたくさんある

仕事を辞めても続けても、何をしていてもストレスはあり、自分を高めていくために必要だったり望ましいストレスと、自分や周りを傷つけていく不必要なストレスがあるけれど、夫の場合は明らかに後者

本人がそれを良しとしているは自分が自分に対する暴力だし

暴力は自分が直接何かに対して行わなくても、黙認・容認することもヨーガでは暴力。家族が明らかに体調を崩して苦痛を受けているのに、強制的に止めなかった私も非暴力に反していました

夫が救急搬送されたと連絡があった時に、今まで私はそれだけ辛い目に合わせているのを容認していたのかと、申し訳なさ過ぎてショックで情けなく感じました

嫌なことがあっても我慢して言わない、体が辛いのに我慢して続ける・休まない、気を遣いすぎる人ほど「大丈夫?」と聞いて素直に「大丈夫ではない」という人は少ない。むしろ隠すのが上手です

自分が我慢すれば周りが円滑に行くと思っているし(そういう経験をしてきて習慣になっている)、周りにどう思われるか気にして言えない(自分に自信がない、自分をよく見せたい、自分に出来ないはずがないというエゴがある)という行動は、正直とは真逆のことなんですって。本人が自分に嘘をついている

悩んで悩んで内に溜めて行き場がなくなりメンタルがやられるだけでなく、体を壊すことはよくあって、体を壊すというのは何も内臓の病気に限らず腰、肩、股関節などが慢性的に痛い、生理痛とかもそう。放置も暴力です

そういう人はたくさんいるし、もしもそういう質を持っている人が身の回りにいたら、気にかけてあげてください

そういう質を持つ人は手を差し伸べても、助けてもらうことは悪いと思って遠慮するし、自分が悪いと思って責めているパターンが多いです

今回、そういう人には、時には純粋に相手のために強硬手段が必要だということを学ぶことが出来て良かったです(先生や友人の後押しがあって、それは私の自己中ではなく助けることだと学んだという意味です)

自分に正直になる

写真はうちの猫さん。めっちゃ自分に正直。でも周りに害はない