ダーナ

インドに行くと物乞いの人が、「money!money!(お金をくれ)」と近寄って来ることがよくあります

幼い子供たち、親子連れ、老人、手や足がない人…様々。日本では見ない光景ですね

初めてのインドでは、断っても断ってもついてくることにうんざりしたり、親が子供にお金を貰うように促すのか?!という衝撃や、断られても食い下がる態度や、どう思われるか構わず平気でお金を頂戴って言えることが逆にすごいなと思っていました

過去4回のインドでは、断ったり、戸惑いつつも無視をしていました

初めて〜2回目のインドでは、なんで見知らぬ人に自分のお金をあげないといけないのか?あげたらもっとしつこく来るのでは?という気持ちが大きかったかも

今振り返れば、お金は自分のものではなく神から巡ってくるものだし、自分の事しか考えておらずとても傲慢で強欲でした

でも、2回目のインドの時に一緒にツアーに参加していた、とあるインド通の方が「彼(彼女)達は、今日生きるために、彼らが『今』すべきこと・出来ることをしている」というようなことをおっしゃっていました

そっか、確かに。それを知ってからのインドでは、不信感や不快感で見ることはなくなったけど、「でもみんなに平等に出来ないし…、キリがないし…」なんて、言い訳を正当化して申し訳なく断っていた

でも、やっぱりどこか気になって後味が悪い。だからというわけではないけど、夫婦で今回は訪れたら渡そうということにしました

それは、先生が常々お金の頂き方と使い方が大事だとおっしゃっていて、自然と実践しお金に執着しない依存しない自由なピースフルな姿に励まされ、見習おうと努めているからですが

特に去年「ダーナ(施し)」に関して教えて頂いて、それが影響しました

ダーナは自分を知り、心を純化させる行為である。お金の執着をなくしていくには、人のために応援として使うことが一番である

例えば、インドで物乞いの人にお金をせがまれて、たった10ルピー(日本円で10数円)でも金銭がなくなることに抵抗やためらいが出るかもしれないし、または、この人にはあげたいけど、この人にはあげたくないと区別する心が出てくるかもしれない

かといって、いざあげるとしても100%本当に相手や何かのために気持ちよく使っているのか?物質的・感情的なお礼や称賛など何か見返りを求めていないか?良い人間に見せようと金額を大きくしていないか?

良い事をしているという気持ちで寄付がクセになって自尊心を大きくしていないか?自尊心が出てきていないか?

布施や寄付を通じて自分の正直さ、心を見ていく。利他心を育む練習である。金銭は多く持つから悩むんですって

実際に、インドを縦断する形で様々な場所に行きましたが、私達は日本では庶民ですけど(日本でも富裕層の人もツアーに参加していたけど)インドの人からしたら観光客だしお金持っている人に見えるのか、どこに行っても物乞いの人はいてずーっとついてきます

自分が相手の立場だったら助けてもらったら嬉しいし、あらゆるものに神が宿っているという意味からそうしたいと思ってタイミングが合えば、サッと渡すほうが自然な成り行きで居心地が良かった

もらったらそれ以上ついてくる人もほとんどいなかった。当たり前のようにもらって感謝もされないけど、期待していないから全く気にならなかった

その人達がなぜ物乞いをしているのか?何か他に方法や努力はしているのかとか、そんな理由を考えるよりも(考えても真相は分からないし)

見るからに今日明日生きるのもやっとじゃないかという人を前にした時に、自分がどうするのか?という今この瞬間が問われている。平等なんて神以外には無理だし、平等にしなければいけないという観念はどこから来ているのか?

問題なのは相手じゃなくて自分がこの瞬間どうするかということをよく感じた

さて、改めて日本でも続けよう。お金の頂き方と使い方を善きものにしていくようヨーガとして修行として実行し、お金に依存しない・執着しない生き方が出来たらそれはそれは心が富んで自由だろうな

持っているから自由なのではなく、本質的には持たないから自由なのだ。(でも、ただ無条件に貧しくしろという意味ではない。)

今のところ、お金に任せない生活をするためにここ近年、少しでも自給自足していくスキルを磨きたいと思っていろいろ調べたり試しています。役立ちそうなことはこのブログでもたまにシェアしています

ラーマクリシュナというインドで超有名な大聖者が以下のように教えてくださっています

慈善事業や寄付のようなことを、世俗的な人間はたいてい何か利己的な目的のためにやっている。これはよくない。だが、無私の気持ちでするならいいことだ。けれども、こういうことを無私の精神でするのはとても難しいことだ。

神様にお会いした時、こんなふうに申し上げるかね―『私はこれこれの貯水池、道路、水汲場、施療所、病院などを建てたいのでございます。神様、どうぞ都合よくいきますように―』あの御方にお会いしたら、こんな希はみんなどこかへ置き忘れてしまうよ。

では、慈善行為はしちゃいけないのか?

ぞうじゃない。不幸にあったり苦しんだりしている人を見たら、金を持っているならあげるべきだよ。

智者はこういう―『あげよう。あげよう。さあ、何でもあげよう』でも心のなかでは、『私に何ができるか。神だけが行為者で、ほかのものは一切何もしていない』こんなふうに思っている。

―大聖ラーマクリシュナ コタムリト 第二巻より―