すべてお任せ

ヨーガの行動規範のニヤマ(歓戒:より内面の見えない部分の浄化を促す教え)の中に『イーシュワラプラニダーナ』というものがあります

『神にすべてを委ねてお任せする』

嫌なことや不都合なことが自分の身に起こった時に、これも神からのギフトだと疑いもなく受け入れられる。神という存在を自然(無私であり人智を超えた働きである)と置き換えてみると分かるのが、自然は壊れても時間をかけながらゆっくり再生し良くなっていく

人間も自然の一部であり、今は苦しく思えても大きな目でみると良くなるために起こっている。それを元に学びなさいということかもしれないし、ピンチがチャンスなのかもしれない。それは神のみぞ知るで分からないけど、とにかく必要なことは自分の元にやってくるという信頼がおけること

この信頼が信仰心であり、イーシュワラプラニダーナで、守ることが出来ればとっても楽である。神が面倒を見てくれるのだから!

かといって、何事も起こるとは決まっているからといって、何にでも流され盲信するわけでもなく、自分本位な行動をしたり、欲望に溺れたり、正しい努力を怠る、すべきことを放棄するのとは違います

なぜなら、それは周りを傷つけるだけでなく結局は自分を傷つけることになるから。

けれども、実際に崇高なものに対して大体の人は委ねられない。自然の流れに任せられない。だから考えてどうにかしようとしたり、誰かや何かや自分を傷つけてまで、手を出したり、酒や煙草や薬やギャンブルや異性かもしれないしそういうものに依存したり、自分が傷つかないように嘘をついて取り繕ったり、貪って溜め込んだりする

自分は神の存在を感じるとか、私は神を信じていると言う人もいるけど、そういう人でも一部分しか委ねられていない

私自身も自分自身を観て一部分しか委ねられていません。一部分でも苦悩が大きく減りずいぶん楽ですけど、それに気づいたからこそ、全て委ねられたら、起こることを受け入れられたらもっと生きやすいのに!ともどかしい…

もどかしい理由はエゴ。この感覚がエゴの抵抗

元々は心を開いて正直に無防備でいたのに、いつの頃からそうして傷ついた経験から(これは誰でもそうです)、傷つきまいと心を閉じて、疑い、与えたくないと握りしめる、「私の」こだわり、「私の」正義といったもので身を固めて守りだす

それらをさらっと手放して丸腰でいるなんて怖い。エゴは傷つくのが怖いから。こういうことが自分の中で巧妙に起きているのです。苦しみ、不満、不安が起きている限り、誰の中にも起きていますよ。感じてみてください

日々の中で、内容や程度が些細な事でも、1ミリでも不安や不満や疑念が起き始めたり、ジャッジしたがる時、今考えても仕方がないこと・分からないことを考えてどうにかしようとしている、過去のことを繰り返し思い出して妄想が始まっている、心配事がある…など、委ねる事を忘れた瞬間が訪れたら

そうしたがることに気づきながらも、「また委ねることを忘れてるな」「自然は良くなっていくのだから」と今この時に意識を連れ戻す。あとはその瞬間祈ったり、好きな聖者の姿を思い描くとか私の場合はしています

神に親しみがない方には言い方を変えれば

問題はすべて自分の頭が作っているから(これまでを思い返してどうですか?過去の記憶や印象からの決めつけ、取り越し苦労、妄想で傷つかないように準備をする、感謝を忘れ傲慢な時…考えるほどループにはまって問題をこじらせていませんか?)

思考でどうにかしても疲れるだけ、良い方向にいかないよとそれ以上広げない。また出てきたら、気づき、じっとする。自分の中に必ずある良心を信じてみましょう

そちらのが案外物事は上手くいきます。試してみてください

期待なく、地道に、自然に習慣になるまで続けます

祈りの時間や祭壇に向かう習慣を持つこと、瞑想で神を想うこと、ジャパも委ねる姿勢を養います。これもヨーガです

Q 帰依者の中で最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。

―ラマナ・マハルシより―