すべてお任せ

ヨーガの行動規範のニヤマ(歓戒:より内面の見えない部分の浄化を促す教え)の中に『イーシュワラプラニダーナ』というものがあります

『神にすべてを委ねてお任せする』

嫌なことや不都合なことが自分の身に起こった時に、これも神からのギフトだと疑いもなく理解している。それも必要なことであるという信頼や、必要なことは自分の元にやってくるという信頼がおけること

これが信仰心で、人生のすべてを委ねていたら、起こることは起こる、来たものは去っていくことを知っていて、抑圧するわけでも、溺れるわけでもなく

不満や不安の元となる恐れを抱くこともなく、ただいつも安心している、疑いなく、心を開いている状態(それが私達の本性であり、特別な人や状態になるわけではありません)感情がなくなるわけではなく、怒りが起こっても巻き込まれない。持ち続けない

かといって、それは起こると決まっているからと何にでも流され盲信するわけでもなく、自分本位な行動をしたり、欲望に溺れたり、努力をしない、すべきことを放棄するのとは違います。なぜなら、それは周りを傷つけるだけでなく結局は自分を傷つけることになるから

けれども、実際に崇高なものに対して大体の人は委ねられない。自然に任せられない。神の存在を感じるとか、私は神を信じているという人でさえも、一部分しか委ねられていないそうです

私自身も自分自身を観て一部分しか委ねられていません。一部分でも苦悩が大きく減りずいぶん楽ですけど、それに気づいたからこそ全て出来たらもっと生きやすい

礼拝する神の化身である、ある聖者が『全て私に任せなさい。面倒をみるから』と、手を差し伸べてくれるのに(肉体は離れてもいつでも私達の側にいらっしゃる)、まるっと委ねお任せ出来たらなんて楽か!心底そうしたいのに、エゴが邪魔して出来ない自分がいます

もどかしいし呆れるし、もがく日々ですが

日々の中で、内容や程度が些細な事でも、1ミリでも不安や不満や疑念が起き始めたり、ジャッジしたがる時、今考えても仕方がないこと・分からないことを考えている、過去のことを繰り返し思い出して妄想が始まっている、心配事がある…など、委ねる事を忘れた瞬間が訪れたら

そうしたがることに気づき認めながらも、「また忘れてるな」と今この時に意識を連れ戻す。あとはその瞬間祈ったり、好きな聖者の姿を思い描くとか私の場合はしています

神に親しみがない方には言い方を変えれば

問題はすべて自分の頭が作っているから(これまでを思い返してどうですか?過去の記憶や印象からの決めつけ、取り越し苦労、妄想、感謝を忘れ傲慢な時…これらが問題を作っていませんか?)

まぁいいかと気にしない、その時考えれば良くない?思考でどうにかしても疲れるだけ、良い方向にいかないよとそれ以上広げない。また出てきたら、気づき、じっとする。自分の中に必ずある良心を信じてみましょう

そちらのが案外物事は上手くいきます。試してみてください

期待なく、地道に、自然に習慣になるまで続けます

祈りの時間や祭壇に向かう習慣を持つこと、瞑想で神を想うこと、ジャパも委ねる姿勢を養います。これもヨーガです

Q 帰依者の中で最もすぐれているのはどのような人でしょうか?

神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者である。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をまかせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか?われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。

―ラマナ・マハルシより―