批判したくなったら

君自身の欠点を見よ。ほかの誰をもとがめてはならない。それは大きな罪だ。心を狭くし、ハートをけがす。

常に他者のうちに良い性質をさがせ。あらさがしが君の習慣になっていると、君は他者に常に欠点を見る。誰でも、自分の中に良い点と悪い点との両方を持っている。

神のみが、欠点を持たず、神聖な性質でみたされているのだ

―スワミ・アドブターナンダ(聖者ラーマクリシュナのお弟子さん)―

直接言うのであっても、心の中であっても、誰かの欠点に目がいく時、欠点を指摘したい時、批判したい時になぜそうしたがるのか?

そうしたがっていることに気づき、なぜそれが起こるのか?自分に聞いてみます

これも暴力

これまでの習慣で無意識にそうしていたり、慎もうとしてもそうしたくなったり…でも、暴力になるから止めることを選択する。それは他者に向けてだけでなくそもそも自分自身への暴力になるから。その選択が揺らいだら、本当にそれをすべきか?自分に問う

そもそも、欠点に目が向いたり、それを咎めたくなるのは、私が嫌だったから?私が気に入らなかったから?私の願望や期待を裏切られたから?

それを突き詰めていくと「私」が安心したいからに行き着きます。私というエゴを守りたい。誰かや何かと比べて「私」の意見や感情や価値観といった持ち物が正しいと証明したい。私という存在(エゴ)を確立したい

私の快適さ・利益やが失われないように。傷つきたくないという恐れがそこにあります

私というエゴの利益は自分や何かを傷つけないと得られない・守れない、意外と小さく儚くもろいもの。一時的に満足しても再び不満、不足、不信が生まれ、いつまでも満たされないものではないでしょうか?

でも、エゴという覆いを払っていくと出てくる《本当の私》はもっと優しい

私達の本性は自分だけでなく他のものへの尊敬や慈しみを持っているし、恐れによって萎縮したり、対立したり、きっちりはっきり私とそれ以外のものと高い壁を作って区別するような緊張はない。自分にとって嫌いな人、苦手な人にとってもそれは内在しています

でも、無理に思い込む、我慢して抑圧するのではなく、日々の中で思考、行動、感情を観察してみてください。観察して気づいて、なぜそうなのか?どこから来ているのか感じてみます。あらさがしは自分を汚すことを知り、これ以上あらさがしをしないように勇気をもって選択します

これが自分と向き合うこと

気づきにくい、観察を忘れてしまいがちな人は、ハタヨーガをやってみます。観察を伴いながらアーサナをして観察力や集中力を高める、アーサナや呼吸法によって落ち着きを取り戻す。瞑想も有効です