「いつでも」内観する

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クラスで行っている内観(自己観察)を日々の中にも持ち込みます。自分を観て気づかないと良き方向に行為を改められず、自分を変えることは出来ません

かといって、内観だけしてハタヨーガを習慣にしないのも同じです。体が不調だと心もそちらに引っ張られやすい。真っ直ぐ中立性と客観性を持って観ているようで私の持ちもの(観念、過去の印象、記憶、願望)で観ていたり、エネルギー切れで観ることをやめてしまう人もいます

ハタヨーガによって心身の純化、エネルギーを生み出し溜めて、忍耐を養い自己観察をしやすくします

最初の頃の観察は、思い出した時、体調に違和感や不調が生じた時、怒りや恐怖や不安や悲しみなどのネガティブな感情が起こった時になされることが多い。「私にとって不都合な状態」は目につきやすく、観察しやすいのかもしれません

しかし、内観は不都合な状態以外の時にもしていきます

心身穏やかな時ほど、物事が上手く回っている時ほど自分の行為を観ることを忘れてしまう時が多い。実はそれが心身のバランスの悪さを招いていたり、内的な自由を妨げる欲望や執着を生んだり精神的傾向を強めているかもしれません

どんな思考、感情、感覚(体調)が起き、それはどこから来ているのか?どんな欲望を持ち、それはどこから来ているのか?自分の持つ基準(善悪、美しい・醜い、苦楽、安心・不安)とは何か?

自分がこだわっている物事とは何か?なぜこだわるのか?何を食べると、何をすると、体と精神がどんな風に影響があるのか?…など

意外と知らないことが多い。問題や障害は自分(の持つ心)が作り出しているのに、その事実を知らないから(それを認めたくないから)、誰かや何かや状況のせいにしたり、自分自身を責めていく

けれども、観察はそれで終わりではなく今この瞬間も観ていきます

例えば、これまでは《相手から何かを言われ腹を立て、とっさに言い返してしまい後悔した》という状況があったら、感情的に言い返してしまい後悔している感情に気づき

その出来事や感情が起こった後で、そもそも腹を立てたのは「私」を大事に扱って欲しい、傷つきたくないという欲望と恐れが下になっているのだとか

後悔したのはもし自分が相手の立場ならあんなこと言われて傷つくだろうなと感じたから…などに気づき、反省する、改める。という過程を経ていたかもしれません

何かが起きてからそれを観察している状態。しかし、これからは上の例で言えば

相手に何かを言われて怒りという反応が起きはじめていく瞬間、その反応も変化していく瞬間、頭の中で言い返したいという欲求の下に思考が湧いてきて変化している瞬間、言い返している時にどんな意識から言い返しているのか?を観ていく

あっという間の出来事だけど、意識的に行います。忘れやすいが意識的に繰り返すうちに出来るようになっていきます

今この瞬間の観察が当たり前になってくれば、そもそも言い返そうとしている自分に気づき、本当に相手に自分の思いを言うべきか?エゴを大きくするので慎むべき?言うならどんな言い方ですべきか?冷静さや余裕と選択が自分の中に生まれます

これ以上、自ら必要以上に緊張(肉体的緊張、怒り、疑念、嫌悪、不信感、悲しみ、執着)を生まないで済む

とっさの反応は自己観察とインドの哲学(ヨーガや聖者の教え:品位を高め、高徳を積み、強く身軽に生きることが出来る教え)に沿い行動していけば変わります

誰かの話を聞いている時、何かを言う時、何かを見ている時、家事をしている時、待っている時、仕事をしている時、食べている時…などなど、何気ない時も動作と言葉と頭の中はどんな状態でしょうか

同じ行為を繰り返すと一定のパターンとなり習慣になっていきます。いつでも行為はなされていて、体と心の習慣は続いていて、それは良くも悪くも体や心、生き方に影響を与えています

今この瞬間の行為に気づき、過ちであれば早く気づいて正しいものに改めることが出来るし、それ以上思いグセや思いグセからの行動という習慣を強めずに済みます

好き嫌いも性格も価値観も変えることは出来ます。習慣に過ぎないからです。自分の持つそれらが変われば、環境や関係性など自分の元にあるもの、やってくるものが変わります

気づかないと変えられない。気づくから変えることが出来ます。ヨーガは自分を知り純粋化していくということが目的ですが、ヨーガはいつでも出来ます