持たないほど楽

日々の中で、何をして、何をしないのか、何をすべきで、何をすべきではないのか、行動の基準となる一つの教えがある

『自分がされて嫌な事はしない』

自分自身を含めて全てのものに苦痛を与えないという非暴力(アヒンサ―)の教えは、他者(他の生き物)を尊重し、尊敬することを学び、慈愛の心を養うのだそうです

生きる上で犠牲は避けられないにしても、最小限にする努力をする欲望を満たそうとすれば、暴力、欺く、搾取、偽りなど誰かや何かを傷つけることに気づき、欲望を自制することを学ぶ(自制はただの我慢ではなく、持つ欲の質を変える、欲望を捨てていく方向に進む努力をすること)

欲望も様々にあるが、観ていると過度で不必要な欲を持ち過ぎている

心を純粋にしていく教えで、すでに内にある幸せに気づくためには純粋な心が必要

とっさの反応や無意識の行動に反映されるほど、習慣になっていないのだけれど、意識的にこれを守るように努めている

自分がされて嫌なことは周りのものにしないなんて当たり前だし、自分は出来ていると思うかもしれない。でも、よくよく自分を観ていみるとそんな事はなかった!

あからさまな悪口を行って誰かの信頼を落としたり、暴力を振るっていなくても、衣食住を通じて何らかの犠牲を払っているし、対人関係、自分自身に対して、仕事、家庭、何かの瞬間…何かを奪ったり、傷つけたり、苦痛を与えている

わざわざそうしたくてしているわけではないものの、心(エゴ)はそれはもう素早くそして巧妙で、考える間もなくとっさの反応で

自分が傷つきたくないから、損をしたくないから、快適でいたいから、有利でいたいから、自分という存在を証明したいから、周りからよく思われたいから、手に入れたいから、体験したいから(楽しみたい、味わいたい、身につけたい、触れたいなど)

それを叶えるために

ちょっとくらいならいいよね、今回はいいか!、仕方がない、気づかなかったことにしよう、この人や物に対してだったらいいかと対象を選んでいる、これをしたら自分に負担があるのと分かっているのにしてしまう

思考、言葉、行動ー毎瞬、毎秒、行為を通じて自分自身を問われる教えであり、毎回自分自身を見せつけられています

純粋になりたいのに、自分本位のちっぽけな利益(エゴ)を守ることを選んでしまう…こんなにも、エゴは大きい。つまり自分自身は縛られているものがこんなにも多いのか、乗り越えたいのに乗り越えられないもどかしさ

この教えを守り切るのって一生かかる、一生では済まないかも。と、くじけそうになるが、でも信じて反省と共に努めているのは

なんとか食らいつき教えに沿って行動するほど、持つ欲の質が変わり、こだわりが減り、こだわりが減ると怒りや恐れにくくなり、生きるのにとても楽になってくるのが分かってきたから(この辺は言葉にしにくい。恩恵はこれだけではない)

なぜかはわからないけど、そんな風に変わり始めると物事がスムーズに回り始めます。なんか、私幸運なんじゃないか?と思うことばかりだか、それもただただ神のギフトであり

自分と向き合うことがしやすくなるためであって、自分を観ることを忘れエゴや欲望を大きくするために起きているわけではない

ヨーガは人を強くさせる。真摯に取り組むことで裏切らず恩恵を与えてくれます

1件のコメントがあります

コメントは受け付けていません。